Milindaの書斎

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読みました 25


中島岳志血盟団事件』を読みました。

血盟団事件 (文春文庫)

血盟団事件 (文春文庫)



血盟団事件とは、政財界の要人が標的となった1932年の連続テロ事件です。井上日召という宗教家が指示を出し、彼を慕う若者たちが実行犯となりました。




「純粋」で「まじめ」な人たち

 決してテロリズムを肯定するわけではないのですが、本書を読む限りでは井上日召に割と共感してしまいました。

 幼いころの日召はエジソンのような「なぜなぜ坊や」だったそうです。ただ、その関心は自然科学や発明よりも人文社会方面に向いていました。特に「善悪の基準は何なのか」という疑問を解決できず、青年期に至るまで抱き続けていました。

 多くの人は、大人になるにつれてそのような疑問を忘れてしまうか、「みんながそう言ってるからそうなんだ」「そういうものなんだ」と思考停止するのだと思います。本気で問い続け、悩み続けた日召の姿勢からは、一種の純粋さが見て取れます。

 彼に惹かれた弟子たちも、純粋でまじめな性格の者が多かったようです。また病気で離職した者も多く、みな社会からの疎外感を抱いていました。
「自分のような人間は身を投げ出すことでしか世間の役に立てない」という思いが、彼らの胸にありました。結果からいうと、投げ出す方向が間違っていたのですが。

 血盟団事件の背景には、もちろん当時の社会矛盾、貧富の差、閉塞感などがあります。ただ、そういった外的要因以外に、「内的な要因」つまり彼らの純粋な性格も大きく作用しているのではないか。一読してそんな印象を持ちました。

 繰り返しになりますが、テロリズムを美化してはいけませんけどね。

スピリチュアリズム反知性主義

 井上日召の思想には、スピリチュアルで反インテリ的なところがあります。初期の弟子たちは純粋で真面目ではあっても、悪くいえば「低学歴の田舎者」でした*1

 そのため北一輝大川周明安岡正篤といった国家主義の理論的指導者に対してはいい印象を持っていなかったようです。

 そもそも日召の思想には「闘争」や「計画」という発想そのものがなかった、と著者はいいます。「世の中はこのままじゃいけない!」という強い思いはあっても、どうやって社会を変えるかという計画はまったくありませんでした。北一輝の「社会改造論」との違いだとされます。

 唯一持っていた具体的な構想は「同志たちを数十万規模まで増やして国会を取り囲む」というものでした。簡単にいえば、デモ行進で世の中を変えられると思っていたのです。

 闘争という発想もないので、マルクス主義階級闘争も嫌いでした。社会矛盾を目にしたときに共産主義に走らなかったのは、これが理由なのでしょう。

 戦う必要はない、みんなが一斉に真理に目覚めればそれが革命になる、というのが日召の考えでした。だから革命もクーデターも目指していませんでした。

 テロリズムを志向するようになってからも、その点は変わっていません。彼らは政権を奪取しようとか、革命政府を作ろうとか、偉いやつに成り代わろうとか考えていたわけではありませんでした。「自分たちは社会変革のための捨て石になる。死刑にされても国民の目を覚ませれば本望」と信じていたのです。

 あえて辛辣な言い方をすると、井上日召たちは「脳内がお花畑」だったのだと思います。だから「賢い」人たちには予想できない行動をとってしまったし、刑法が抑止力として働かなかったのでしょう。

一体化による乗り越えは……

 みなが真理に目覚めればいいとはいっても、井上日召の考える真理とは何なのでしょうか。それは「人生・国家・宇宙は一体である」という見方でした。

 これは日召が少年時代から悩み続けてきた「善悪の基準とは何か?」という問いへの答えでもありました。人生・国家・宇宙が一体となった状態で生きているならば善、そうでなければ悪、というわけです。

 私なりに言い換えるなら、「自分・他人・自然界の一体化」となります。他人と上手くやり、自然と調和する生活をしていれば、それが最上の幸せである、といったところでしょうか。信奉するかどうかは別として、理解はできます。おそらく日本人好みの(少なくとも当時の日本人好みの)価値観なのでしょう。

 一体化によって疎外を乗り越える論理として、マルクス主義や「近代の超克」と比較するのも面白いかもしれません。

 ただ、他人や国家との完全な一体化はあり得ないと思います*2。「誰かと一体である」「国と一体である」と感じる瞬間に人は幸せである、という事実を否定はしません。というか、自分もだいぶ一体感に飢えているほうでしょう。しかし、その一体感はなかなか得られるものではないし、永続するものでもないし、求めすぎてはいけないと考えています。

 日召も自身がいうところの「真理」を実践できていたわけではないように見えます。弟子のうち彼のスピリチュアリズムについていけない者はどんどん離脱していき、居士号の授与で弟子の心をつなぎ止めなければいけなかった、という記述があるからです*3

 日召と弟子たちも決して一体化はしていなかったということですよね。意地の悪い見方ですけど。

血盟団事件 (文春文庫)

血盟団事件 (文春文庫)

*1:後には東京帝大や京都帝大の学生も加わったが。

*2:自然との一体化は……どうなんだろう。

*3:オウム真理教ホーリーネームを連想する。