Milindaの書斎

読んだこと、考えたことなどを書き留めます。外国語はたまに。

自分用メモ 53

聴耳草子と「きりなし話」

『聴耳草子』は佐々木喜善岩手県の昔話を集めた本だが、その末尾には「きりなし話」と呼ばれる類型の話が載っている。

「きりなし話」とはだいたいこんな感じの話である。

【例】
 栃の実がひとつ、川に落ちました。実はどんぶらこ、どんぶらこと流れて行きました(語り手の好みによって川岸の風景などを描写)。
 栃の実がもうひとつ、川に落ちました。実はやっぱりどんぶらこ、どんぶらこと流れて行きました。
 さらに栃の実がもうひとつ、川に落ちました。実はやっぱりどんぶらこ、どんぶらこと流れて行きました(以下、オチもなく続く。おそらく聞き手が「別の話にして」と言いだすまで続くのだろう)。


きりなし話には、文字通り「きり」がない。いわゆる「ヤマ」や「オチ」が欠落している。昔話のレパートリーが尽きたときに窮余の策として語られた話だろう、と佐々木喜善は解説している。

このような類型にわざわざ「きりなし話」と名前をつけ、本の最後におまけのように載せているのは、これが「普通の物語」ではない、という前提があるからだろう。物語には本来「きり」があるのもので、「きり」がなければ物語ではない、と了解されているからだろう。「きり」がなければ「お話にならない」のだ。

考えてみると、「きり」を必須とするのは物語だけではないのかもしれない。あらゆる文章、あらゆる言語表現にも要求されるのではないか。論文にも、報告書にも、小説にも、詩歌にも。どんなジャンルを選ぶにせよ「何を伝えたいのか」「どこを目立たせたいのか」は必ずはっきりしていなければならない。少なくとも読み手はそのつもりで読むだろう。


振り返ってみると、自分が書くものには「きり」が欠けていたのかもしれない。大学のレポートにせよ、小説にせよ、短歌にせよ、だいたいどれも「どこに焦点があるのか」とか「何を目指しているのか分からない」と言われた。

もちろん「文章に『きり』はなくてもよくね? むしろなくす方向に突き詰めてみたら面白くね?」と考える人たちもいる。例えば保坂和志で、あの人は「きりなし話」を極めた作家だと思う。自分は『プレーンソング』と『書きあぐねている人のための小説入門』しか読んだことないが、何しろ若いころだったのでだいぶモロに影響を受けた。そこで「こういうのが本当の文学だ。ストーリーが分かりやすいものはただの娯楽作品だ、質が低い」と勘違いしたのが、いまにして思えばよくなかったかなぁ。実際は文学がよく分かっているどころか、ほとんどラノベしか読めない頭だったくせにね。*1


しかし、自分が書くものに「きり」が欠けていたことに気づいたからといって、すぐに是正できるものではない。そう簡単に「きり=書きたいこと・伝えたいこと」は見つかるものではないし、見つけるための鋭い感性も持っていないからだ。ま、無理に書こうとしても上手くいくはずはなくて、書くことがないなら書くのをやめるべきなのだろうな。

短歌も、鑑賞はともかくとして作るのはしばらくやめるかもしれない。「詠むべき発見」って私の人生にはそんなに無いので。毎日、抒情しながら生きているわけでもないし。仮に発見や感動がたくさんある時期になったら、また作るだろう。

聴耳草紙 (ちくま学芸文庫)

聴耳草紙 (ちくま学芸文庫)

プレーンソング (中公文庫)

プレーンソング (中公文庫)


捜神記

「幽霊は実在するか」という話が面白かった。
現代に置き換えるとどうなるんだろう。リモート飲み会してたら「私は存在しないんです。実はただのプログラムなんですよ」と言いだす人がいるとか? うーん。ダメだな。改変にもセンスが要る。

捜神記 (平凡社ライブラリー)

捜神記 (平凡社ライブラリー)

  • 作者:干 宝
  • 発売日: 2000/01/24
  • メディア: 文庫

*1:好きなラノベは色々あるが、例えば新井輝の『ROOM.NO.1301』だ。何度かこのブログでも触れている。少年向けなのに肉体関係が明示されていることで話題になった作品だけれど、あの作品の本質は「ただ登場人物がしゃべっているだけでストーリーが進まない。でもその会話を読むのが何となく心地いい」ところだと思う。
もちろんテーマがないというわけではなくて「何をやったら男女がつき合っていることになるのか、愛していることになるのか」という大きなテーマはあるのだが、それを語るだけならあんなに巻数は必要ないはずだ。明らかに無駄な会話が多い。しかし、なぜかそれを読むのが心地いい。理由はよく分からないけれど、何度も読みたくなる。楽しみの質は保坂和志の作品によく似ていて、「きりなし話」に分類できるだろう。