フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』を読みました。知的生き方文庫の下巻です。
ちょっと、議論が拡散したまま終わっているという印象ですね。締めの一文が
われわれは最後の最後までその(引用者注:歴史の)成り行きを知ることはできないのである。
となっていますし。
自分なりにメモしておくと、第4章の要点は
- 地球上には、物質的に豊かでかつリベラルな民主主義が根づいている国々(脱歴史世界)と、それらを手に入れる途上の国々(歴史世界)がある。
- 脱歴史世界の国同士はもはや戦争をしない。脱歴史世界と歴史世界の戦争はあり得る。
→ちょっと楽観的すぎる気がするけどいまのところ当たってはいるのか。
- 歴史世界から脱歴史世界への移民が問題となるだろう。また「気概」を満足させるために脱歴史世界から歴史世界の闘争に身を投じる者もいるだろう。
→これは当たりだと思う。
→日本のことを指しているという意味では大外れなんだけど、いまの中国はそんな感じなのかな。
第5章の要点は
- 欲望と気概を同時に満足させるのは難しいのかもしれない。
- 社会の中に「優越願望」を昇華できる場所が必要。それも市民の役に立つような形で、多様であるほどいい。
→多様でないとは例えば「資本主義なんだからたくさん金を稼げ、そうすれば優越願望を満たせる」という価値観しかない状態。
→いまは優越願望を満たす手段がたくさんある時代だけど、満たす難易度は実は上がっているのかもな、なんて思ったり。
- 人の優越願望はなくならず、再び戦争という形で満足させようとする国が現れるかもしれない。しかし、そのような国はグローバルな経済から取り残されてしまうし、科学の発展も止まるので破綻するはずだ。
→これはちょっと楽観的すぎるんじゃないかなぁ。
- 優越願望よりも「対等願望」のほうが実は民主主義への脅威になりうるのではないか。社会が平等になるほど、残された不平等への攻撃は激しくなっている。
- 際限のない対等願望はやがて「自然の限界」に突き当たって破綻するか、さもなければ人間の定義にすら混乱をきたすだろう。
→先天的な要素は一人一人違います。それが「自然」であって、そこまで否定しようとするとおかしくなるんですよね。
→人間の定義に混乱をきたすとは、例えば「動物にも選挙権をあげよう」とか。極端な例ですが。
- 「合理的な認知」はまだまだ歴史が浅く未完成な概念なのかもしれない。それが正しく機能するには、普遍性のない不合理な認知に頼らざるを得ないようだ。
→経済的な合理主義が根づくためには前近代的な「労働倫理」が必要である、等々。
→結局「人間がすべての他人を合理的に認知することは可能なのか」という問いになりそう。フクヤマによると、「神がすべての人を認知してくれる」という観念がキリスト教の偉大な発明であるようだが。
総括すると、本書の重要な問いは以下の2つだと思います。
- 欲望と気概を同時に満足させることはできるのか。それができたら最良の政治体制と言えるのではないか。
- (工業化によって欲望が満足させられるのは前提として)リベラルな民主主義は気概を満足させ得るのか。できるならば民主主義が最良の政治体制ということになり、すべての国家はそこに行き着くことにならないか。
そして答えは
- 歴史上に出現した政治体制の中では民主主義が最良だと思うけど、万能ではないな。あと、すべての国家が民主主義に行き着くといっても過程にはだいぶバリエーションがあるかも……(ゴニョゴニョ)
といった感じです。上巻や中巻の感想にも書きましたが、私は本書の主張が大枠では正しいだろうと思っています。「気概」を重視する立場にも、個人的には同意します。ただ、好き嫌いが分かれそうな本だなとも感じます。
最後に蛇足。笑ってしまった記述を2つ引用します。
自由の行き過ぎ——レオナー・ヘルムスリーやドナルド・トランプのような人物の傲岸不遜な振る舞い(後略)
p.142
仮に人がドナルド・トランプのような土地開発業者やラインホルト・メスナーのような登山家やジョージ・ブッシュのような政治家になってしまえば、まだ汲みつくし得ない理想主義——いやそれどころか手も触れられていないような理想主義——はもう残されていないものなのだろうか?
p.202-203
1つ目の引用の後では「自由の行き過ぎよりも平等の行き過ぎのほうが本当は怖いんだよ」と述べようとしているので、トランプ氏を非難することに主眼があるわけではないんですけどね。2つ目は……笑

- 作者:フランシス フクヤマ
- メディア: 文庫