Milindaの書斎

読んだこと、考えたことなどを書き留めます。外国語はたまに。

蔵書整理 6 歴史の終わり


フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』を読みました。知的生き方文庫の中巻です。続きも読もうと思っています。

この本をどう評価するかは、結局、人間がもつ「気概」というものをどう評価するかにかかっているのだと思います。

フクヤマによると、ホッブズやロックなどアングロサクソン系の思想家は欲望と理性だけを重視しました。
一方、ヘーゲルなどゲルマン系の思想家はそれに加えて気概も重視しました。

※あくまで図式的な整理です。フクヤマは「○○人なら必ず△△の思想を持っている」といっているわけではないと思います。
※以下「フクヤマによると」はいちいち付けません。


気概は「自分はこうありたい」という思いにもなり、「他人にこう見られたい」という思いにもなります。
また、不当に虐げられた人々を見たときの「義憤」にもなれば、「他人はこうあるべき」という価値観の押しつけにもなり得ます。

ホッブズは気概から虚栄が生まれ余分な争いを招くのだと考えていました。
一方、ヘーゲルは単なる欲望を超えた「道徳的自由」の源泉が気概なのだと考えていました。
著者のフクヤマも、気概が人間を動かし、歴史を動かしてきたのだと力説しています。そして、人類の歴史を大きく括るなら、気概が「優越願望」となって現れる時代から「対等願望」となって現れる時代へと移り変わっているのではないか、といいます。
人々がみな対等に認め合うことを望む時代になれば、民主主義も上手く機能するようになってめでたしめでたし、歴史のゴールだ、というわけですね。


ホッブズの言い分にもヘーゲルの言い分にも一理あると思います。私自身は名誉欲が強いほうだと思いますし優越願望ですねすいません、気概を重視する立場にもそんなに違和感がないのですが。
しかし、それが人類に普遍の原則なのかというと違うような気もします。欲望を満足させられれば気概は満足させなくていい、という人も多いんじゃないかなぁ。割合は分からないけれど。物質的な欲望を本当に何の妥協もなく100%満足させられるなら、私もそれでいいかも。


政治的公正や反差別というものの根っこには、気概があるのでしょうし、対等願望があるのでしょう。してみると、やはり欲望の時代から気概の時代へ、優越願望の時代から対等願望の時代へと移り変わっているということなのか。はてさて。


承認欲求に取りつかれた人やマウンティングが大好きな人は、果たして気概に動かされているのか。欲望に動かされているのか。そう考えると気概と欲望の境目もよく分からなくなってきます。欲望は物質の次元、気概は精神の次元と分けることもできますが、依存症になるなら気概より欲望に近いですよね。
ヘーゲル的な意味でいえば、「承認を求めすぎるのはみっともないからやめよう」というのが気概なのでしょうけども。精神分析でいう超自我交流分析でいう親みたいな。


分からなくなったついでに(ぉぃ)2つの文章を引用して終わります。
1つ目は『歴史の終わり』本文から。

「気概」という言葉が対象物を価値あるものにする魂の部分を示すのに対し、「認知への欲望」は「気概」の働きの一つであり、他人の意識に対して自分と同じ評価をしてくれることを求めるものだという点でこの両者には多少の違いがある。認知を要求しなくとも、自分の中で「気概」に満ちた誇りを感じることは可能である。だが、尊敬とはリンゴやポルシェのような「モノ」ではない。それは意識のあり方であって、自分自身の価値観について本質的な確信をもつためには、その価値観を他人の意識によって認めてもらわなければならない。だから気概は必ずではないにせよ、一般的にいって、他者からの認知を求めるようにと人々を駆り立てていくのである。

もう1つは『岩波小辞典 社会学』から「甘え」の項。

一般に人間関係において相手の好意を求める心理のことであるが,相手との分離を拒否し依存する欲求や行動を意味する場合が多い.幼児が母親に対してもつ感情が典型的である.土居健郎精神分析の臨床経験を通し,自律性を促す西欧社会に対し,相互の関係性を重視する日本では文化・パーソナリティを理解する鍵概念として〈甘え〉があると示し,日本文化論に大きな影響を与えた(『「甘え」の構造』1971).

※上でもいいましたが、あくまで図式的な理解だと思います。「○○人なら必ずこう」というわけではないでしょう。


「対象物を価値あるものにする」「相手との分離」「自律性」、この辺が気概と欲望を分ける鍵なのですかね。