Milindaの書斎

読んだこと、考えたことなどを書き留めます。外国語はたまに。

Composition 100 プロ倫


英作文の練習もとうとう100回目です。最近はほとんど英語→日本語の翻訳ばかりで、自分で英文を書くという練習にはなっていないのですが、まあそれは置いといてください。
前回の続きから『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の英訳版を読んでいきます。

 Let us now define our terms somewhat more carefully than is generally done.
We will define a capitalistic economic action as one which rests on the expectations of profit by the utilization of opportunities for exchange, that is on (formally) peaceful chances of profit.
Acquisition by force (formally and actually) follows its own particular laws, and it is not expedient, however little one can forbid this, to place it in the same category with action which is, in the last analysis, oriented to profits from exchange (note 2).

NOTE 2;
Here, as on some points, I differ from our honoured master, Lujo Brentano (in his work to be cited later).
Chiefly in regard to terminology, but also on questions of fact.
It does not seem to me expedient to bring such different things as acquisition of booty and acquisition by management of a factory together under the same category; still less to designate every tendency to the acquisition of money as the spirit of capitalism as against other types of acquisition.
The second sacrifices all precision of concepts, and the first the possibilities of clarifying the specific difference between Occidental capitalism and other forms.
Also in Simmel's Philoshopie des Geldes money economy and capitalism are too closely identified, to the detriment of his concrete analysis.
In the writings of Werner Sombart, above all in the second edition of his most important work, Der moderne Kapitalismus, the differentia specifica of Occidental capitalism―at least from the view-point of my problem―the rational organization of labour, is strongly overshadowed by genetic factors which have been operative everywhere in the world.

(拙訳)
 ではここで、資本主義という言葉をどうにかして一般的な用法よりも丁寧に定義しておこう。
 資本主義的な経済活動とは「交換の機会をいかして利潤を得ることへの期待に基づく活動」だとしよう。交換の機会は(表面上は)平和的に巡ってくるものである。
 力による利潤の獲得は、独自の法則に従う。それは交換から利潤を得ようとする活動と同じではない。両者の違いは法で禁じられているか否かではない。たとえ力による獲得が禁じられていないとしても、やはりそれは交換による獲得とは違うものなのだ。最近の研究は力による獲得と交換による獲得を一緒にしているが、どうかと思う(英訳注2)。※この辺りはだいぶ意訳しているし、正確さは保証できません。

英訳注2:
 ここで著者は、名誉ある先達ルヨ・ブレンターノと、いくつかの点において意見を異にする(ブレンターノの著作は後に本文で引用する)。
 主に用語の使い方についての異論なのだが、事実に関する疑問もある。
 財を戦利品として得るのか、工場経営によって得るのかはまったく別のことだ。このように違う事柄を一緒にするのは、得策ではないように思える。ましてや、金銭を稼ごうとする傾向を(金銭以外のものを得ようとする傾向と比較して)資本主義の精神だと名づけるのはまずい。
 ブレンターノは概念の厳密さを犠牲にしてしまっているし、それに何よりも、西洋の資本主義と他の形態との違いを明らかにする可能性を犠牲にしている。
 ジンメルの『貨幣の哲学』でも、ちょっと貨幣経済と資本主義を同一視しすぎだ。そのことが具体的な分析をつまずかせている。
 ヴェルナー・ゾンバルトの著作も同じだ。特に、最も重要な『近代資本主義』の第二版では、労働の合理的な組織化が見過ごされている。それは西洋資本主義の本質的な特徴である(少なくとも私にはそう見える)のに、濃い影にすっかり隠されてしまった。代わりに、世界のどこにでも当てはまるような遺伝的な要素にばかり光が当たっている。※ここもかなり意訳したので、正確さは保証できません。

※どうも注2は英訳者によるものではなく、ウェーバー自身が書いたもののよう。末尾に「TRANSLATOR'S NOTE」と添えられていないので。


【雑感】
注が長いので、本文は少ししか読み進められませんでした。まあ、慣れてきたら自然にペースアップできるはずなので、焦らずにやっていこうと思います。

ウェーバーの考える「資本主義の精神」が少しずつ明らかになってきた感じですね。