Milindaの書斎

読んだこと、考えたことなどを書き留めます。外国語はたまに。

Composition 99 プロ倫(イントロダクションがけっこう大事なところに入ってきたよ)


前回の続きからです。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の英訳版を読んでいきます。始めてから日が浅いので、まだイントロダクションです。

 And the same is true of the most fateful force in our modern life, capitalism.
The impulse of acquisition, pursuit of gain, of money, of the greatest possible amount of money, has in itself nothing to do with capitalism.
This impulse exists and has existed among waiters, physicians, coachmen, artists, prostitutes, dishonest officials, soldiers, nobles, crusaders, gamblers, and beggars.
One may say that it has been common to all sorts and conditions of men at all times and in all countries of the earth, wherever objective possibility of it is or has been given.
It should be taught in the kindergarten of cultural history that this naïve idea of capitalism must be given up once and for all.
Unlimited greed for gain is not in the least identical with capitalism, and is still less its spirit.
Capitalism may even be identical with the restraint, or at least a rational tempering, of this irrational impulse.
But capitalism is identical with the pursuit of profit, and forever renewed profit, by means of continuous, rational, capitalistic enterprise.
For it must be so: in a wholly capitalistic order of society, an individual capitalistic enterprise which did not take advantage of its opportunities for profit-making would be doomed to extinction.

※見やすさのために1センテンスごとに改行して引用しました。

(拙訳)
 以上と同じことは、資本主義についても言える。資本主義はわれわれの生活にとって決定的な力を持つ。
 手に入れることへの衝動、稼ぐことの追求、特に可能な限り多くの金を稼ごうとすること――以上のようなものは、それ自体では資本主義に関係がない。
 そういった衝動はあらゆる階層に存在している、いや、昔から存在し続けている。給仕にも、医師にも、馬車の御者にも、芸術家にも、娼婦にも、不正直な役人にも、兵士にも、貴族にも、十字軍にも、博徒にも、そして物乞いにも。
 だから人はこう言うかもしれない。「地球上のどんな時代のどんな国の、どんな種類のどんな条件の人々にも、欲望はあった。資本主義が生まれる可能性はどこにだってあったんだよ」と。
 資本主義に関するこんな素朴な考えはきっぱりと捨てなさい、と文化史の授業で教えるべきだ。文化史を学ぶ者にとっては幼稚園レベルの話じゃぞ。
 際限のない欲望は、資本主義とちっとも同一のものではない。ましてや貪欲が資本主義の精神などであるものか。
 もしかしたら資本主義とは抑制と同義なのかもしれない。少なくとも、不合理な衝動を理性によって調節することではあるだろう。
 しかし資本主義とは(欲望の追求と同一のものでないにもかかわらず)利潤の追求と同一のものである。しかもその追求は絶え間なく引き延ばされる。連続的で、合理的で、資本を持った企業の活動によって。
 したがって次のことは間違いなく言える。その社会の秩序が完全に資本主義的なものであるならば、儲けの機会を活かさなかった企業は消滅する運命にある、と。


【雑感】
話が官僚制から資本主義に移りました。とうとう本書の主なメッセージが語られることになりそうです。
ただ、言い方が込み入っているので少し理解しにくいかもしれません。話が堂々巡りしているようにも見えてしまいます。

引用部でウェーバーが主張しているのは「資本主義とは欲望の追求ではない。欲望は全人類にあるが、資本主義はヨーロッパでしか発達しなかった」ということです。しかし、英文の最後の2センテンスに当たる箇所で急に「資本主義は利潤の追求である」と言いだしているので、混乱してしまう方もいるでしょう。えっ、じゃあ結局は欲望の追求じゃん、と。

こんがらがってしまうのは、「欲望の追求=利潤の追求」という式が前提となっているからだと思います。
それを「欲望の追求≠利潤の追求」という前提に置き換えてやると話が理解しやすくなります。ウェーバーが言いたいのは、おそらく「資本主義は欲望の追求ではないにもかかわらず、利潤の追求である」ということです。つまり「欲望の追求≠利潤の追求=資本主義」というのがウェーバーの主張であり、矛盾や堂々巡りはありません(彼の説が検証に堪えうるかというのはまた別の問題ですが)。

しかし「利潤は追求しているのに欲望は追求していない」などという状態が、本当にあり得るのでしょうか? あり得るとしたらどんな条件が要るのでしょうか?
この問いが、プロ倫の本論にもつながっていくはずです。

話は逸れますが、「欲望はどんな階層の人にもある」と主張する時のウェーバーはノリノリですね。音楽の話をして止まらなくなった時と同じ調子で、色んな職業を挙げています。この書きぶりはやはり枕草子の列挙章段を思い出します。
「ものづくし」は日本の作家の特徴で、中世では清少納言が、近世では近松門左衛門が得意だとか聞いたこともあったのですが……もちろん他の言語にも、アカデミックな文章にさえ、「ものづくし」はあるのですね。