Milindaの書斎

母国語と外国語を行ったり来たりしながら、自分なりに「書くこと」を追求したいと思います。

Composition 48 美濃

 私は昔、「郷里の言葉」という短編を書いたことがある。私の郷里では、「わっちんたあ、あかんわなも」というようなときは、自分たちはだめです、ということだが、それでいい気になっていると、その自分たちのなかにはお前たち、それから人間みんなということも含んでいるつもりだ、ということにしばらくして気がつく。私でさえ、どうしてこうした変に利口な郷里の人間のあつかいを、東京へ帰ってから思いあたることがある、というようなことで始まる作品で、やがて私の父と母のことに、私自身が両親からこの扱いを受けたような気がする(といって怨んでいるわけではない)という趣旨のことにつながって行く。
(中略)
 私や篠田は、でき得べくんばなるべく郷里の言葉をつかって会話をすべきであり、それをつかって偉大なる自叙伝を書き、悪い意味ではなく、「夜明け前」がそうであるように郷土を顕彰すべきだ。谷崎潤一郎の「細雪」や舟橋聖一の「白い魔魚*1」や宇野千代「薄墨の櫻」のように、よそものに掠めとられてなるものか。
 ほんとうに、彼がそう思っているかどうかは、私は知らない。そんなことはどうでもいいさ。彼だって標準語をつかって妻子や友人たちと話している。それでも、彼はいざという勝負(?)のさいには郷里の言葉をつかうというのは当然である。そのためにこそ土着の言葉というものは存在するのであって、それ以外に何の得があろうか。

小島信夫『美濃』p26-27

In the past, I wrote a short story titled 'The Dialect of My Home.' When trouble happens, the people of my birthplace says, "Wacchin-ta, akan wa namo (わっちんたあ、あかんわなも) ." That means, "We are useless and responsible for the trouble." However, it is far from a submissive attitude. The 'we' they say comprises not only themselves but also the companion they are talking to—furthermore, all Japanese people and all human beings. The outsiders don't notice the ironic style of my home. Even though I'm from Noshu, sometimes I don't see, too. Once my parents treated me in that way. I'm not bitter against them, but...
[omit]
The people from Noshu, such as Shinoda and I, should have conversations in the provincialism as far as we can. Besides, I must write my magnificent biography using the home dialect. I'll try to praise our homeland in the real sense, as Shimazaki Toson did in 'Before the Dawn.' I can't endure If I'm forestalled by foreigners, such as The Makioka Sisters by Tanizaki Junichiro, The White Leviathan by Funahashi Seiichi, and Usuzumi Cherry Blossom by Uno Chiyo.
I don't know Shinoda has the same ambition as me. It is significant. He usually applies standard Japanese to talk with his family and friends. Even so, when it comes to a quarrel, of course, he returns to our patois. To use for a dispute is the only purpose indigenous language exists. Is there anything else?

(Readability score: 64)

【雑感】
率直に言うと、小島信夫は悪文家です。引用箇所をパッと見るだけでも

  • センテンスが長いこと
  • 「という」の使いすぎ
  • 「ような(に)」の使いすぎ

は気になります。人によっては助詞「は」の重ねすぎも気になるかもしれません。他にも色々あるでしょう。ライター畑の人に校正させたらボロクソなんじゃないですかね。

とはいえ、小説というのは本来「何をどう書いてもいいもの」なので、本人が自分のスタイルだと言い張ればその通りなのかもしれません。

でも、このタイプを郷土の大作家として持ち上げるのはやめたほうがいいんじゃないかなあ……(笑) おらがところ出身の文豪が欲しいなら、坪内逍遥島崎藤村*2で十分でしょう。

本当にどうでもいい小さなこだわりですが、私は「岐阜」という言い方があまり好きではないので*3英訳のほうでは「濃州 Noshu」と書いています。

引用文の「郷里の言葉」を日本語に、「標準語」を英語に置き換えたらどうなるのかな、なんていう考えも浮かんできたり……
このまま練習し続ければ、やがては英語で1冊の本を書けるくらいになるかもしれません。それも漠然とした目標の1つではあります。でも仮に私が「偉大なる自叙伝」を編むとしたら、やっぱりを日本語を使いたいですね。

……小島信夫が「浮かんだことをつらつら書く」というタイプの作家なので、私の感想もそういう形になってしまいました(笑)

*1:The White Leviathan というのは苦しい訳。

*2:出身地が長野県木曽郡から岐阜県中津川市編入された。なお小島は引用文の中で『夜明け前』を自作の模範としている。山国の人間として藤村に共鳴するところがあったのだろう。

*3:本来は岐阜城岐阜市を指す言葉であって、美濃の他の地域を指す言葉ではないため。