Milindaの書斎

読んだこと、考えたことなどを書き留めます。外国語はたまに。

Composition 46 新作文宣言

 わたしたちは自分のことを「わたし」とか「僕」とか一人称で呼んでいるのが普通である。だが、それにしたところで、決して保守的で安定した話法というわけではない。
(中略)
 一人称だけでも「わたし」「ぼく」「わたくし」「おれ」「わし」「あたし」と使い分けたり、年配の人になると「小生」「不肖」などと少々へりくだったいい方をしたり、また「おいら」「わが輩」とふざけたりする。あるいは子供や孫に向かって自分のことを「ママはね」とか「おじいちゃんはね」とかいったりもする。
 もっとそれを進めていくと、時代や年齢や立場の拘束はあるものの、むかしから日本語にはいろんなパターンがあることに気づく。
(中略)
 こう考えてみると、一人称だから主観的、三人称だから客観的などという安易な決めつけは無意味に思えてくる。要するに、わたしたちは一人称であれ三人称であれ、必ず“主語“的存在として“何者か“になりすまさなければ表現することができない。いいかえれば純粋無垢な主体そのものの人称などは、もともとありえないのである。
(中略)
 ことばの“役柄“とその話法を選び取ることで、わたしたちはニュアンスの異なるさまざまな“主体“のスタイルを使い分け、開拓しているのである。いかなることばによる表現も、かならず自己表現であると同時に自己発見でもありうる理由は、そこにあるのだ。

梅田卓夫、清水良典、服部左右一、松川由博『新作文宣言』p164-166

You usually use the first-person to call yourself, for example, 'Watashi' or 'Boku.' However, it is not a conservative nor stable narration.
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There are various patterns of first-person. We use many different pronouns, such as Watashi, Boku, Watakushi, Ore, Washi, and Atashi. Older adults sometimes call themselves Shosei (a trivial person) or Fusho (a person who is inferior to the parents or the master) to show their modesty. When you are kidding, you can choose Oira or Wagahai. Besides, you may describe yourself Mamma or Ojiichan when you talk with your children or grandchildren.
If you put the thinking forward more and more, you would conclude that our language has numerous first-person pronouns at all times, although the period, age, and status have limited the usage of pronouns.
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As a result of speculation, it becomes doubtful that the first-person narration is subjective, and the third-person one is objective. After all, we cannot write something unless we choose a 'subjective' role and disguise ourselves as an 'author.' In other words, it never exists that an immaculate person as a subject itself.
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We must choose a 'role' as a narrator and a way of narration. Therefore, we can use various 'subject' in the divert nuance according to an occasion. Furthermore, we can even invent a new style. That is why every linguistic representation is not only self-expression but also self-discovery.

【雑感】
名文だと思うので、ところどころカットしつつ長めに引用しました。ありのままの事実を書いた文章というものがないように(歴史書ルポルタージュにだって主観は入るし、解釈も分かれます)、ありのままの書き手、ありのままの自己というものもありません。私たちは常に「誰かとして」もっと言うなら「誰かを演じて」書くことしかできないのです。書くという行為は本質的にそういうものなのだと思います。

英訳にあたって、日本語の一人称はそのままアルファベット表記で放り込むことにしました(笑) そのせいなのか分かりませんが、リーダビリティ・スコアは53点しかありませんでした。まあ、原文がけっこう抽象的な話をしているのも理由でしょう。

著者の4人は小牧工業高校で国語の先生をしておられた方々です。私も一応、小牧の近くに住んでいると言えば住んでいるので、多少の親近感があります。