Milindaの書斎

母国語と外国語を行ったり来たりしながら、自分なりに「書くこと」を追求したいと思います。

Composition 32 夜消える

 おのぶの亭主兼七は、藤代屋に品物をおさめる雪駄職人だった。むかしは腕がいいと言われて、藤代屋の旦那に目をかけられたものである。
 だが、兼七は三十を過ぎたころから深酒をするようになった。家で飲み、外で飲み、しまいには仕事をしながら茶碗酒をあおるようになった。
 もともと酒はきらいではなく、仕事が終わったあとで近間の飲み屋で一杯やって来るほどの酒好きではあったが、はじめのころは家の中で飲むようなことはなかった。そして、一杯やって帰るとすぐに寝てしまうので、おのぶも亭主の酒がいまのようにたちのわるいものになるとは、夢にも思わなかったのである。
 しかし兼七の酒は、急に変わった。まず、飲む量が多くなった。外で飲んで来ても、家にもどるとまた飲んだ。家でしたたかに飲んでも、それでおさまらずにふらふらと外に飲みに出た。内と外の境目がなくなった。

藤沢周平『夜消える』p13-14

Kaneshichi is Onobu's husband. He was a clog maker, and the Shop Fujishiro used to stock his clogs. The host of this shop favored his quality.
However, Kaneshichi came to drink much alcohol after he had gotten 30 years old. He sipped at home, in taverns, and finally, even on the job.
He had not disliked alcohol by nature. He had been rather a drinker. He had used to drop in a bar on his way home, but in days of old, he had never taken alcohol in his house. After he had come back getting drunk, he had fallen asleep soon. So Onobu had little dreamed that her husband's drunken behavior became too nasty.
Kaneshichi had changed suddenly. He had come to booze more than the past. Besides, he had come to fuddle at his house. He had lost the differentiation between home and outside. Now he always drank.

【雑感】
藤沢先生の描写は簡潔なので、訳すのは割と楽でした。強いて悩んだ点を挙げるなら、1つは「回想はすべて大過去で書くべきなのか? それとも回想であることが文脈から明らかならば大過去でなくてもいいのか?」ということ*1。もう1つは「酒を飲む drink」を別の動詞に言い換えることです(sip、booze、fuddle など)。
ただ、飾り気のない文だからといって簡単にまねできるとは限りません。原文を写していて、そのことを痛感しました。今回は翻訳によって得たものより、原文から得たもののほうが大きかったと思っています。
特に、藤沢先生は主語の省略が上手いですね。ほとんどの箇所で兼七が主語になっているはずなのに、「兼七は」と明示されているのは2箇所だけ*2。「兼七の酒は」を含めても3個所です。それでもまったく気にならず、すらすらと読み進めて意味を取ることができます。主題の提示が上手くいっていれば、主語はいちいち書かなくても分かる。なくても困らない主語だから省ける。そういうことなのでしょう。簡単なように見えますが、これまでの私がまったく実践できていなかったテクニックです。

*1:上の英文では律儀に大過去を使っている。

*2:「は」は取り立て助詞であって主格ではないとか、そういう細かい議論は置いておく。ここでは「~は」が主語を表していると大ざっぱに捉える。