Milindaの書斎

読んだこと、考えたことなどを書き留めます。外国語はたまに。

【ハイライトだけ見て語る】レノファ山口vs松本山雅


ハイライトだけ見て偉そうに語り、玄人の神経を逆撫でしていこうという試み。

いや、別にそこまで悪意があるわけではなく、「ハイライトだけでどこまで本質に迫れるんだろう」という好奇心と、「サッカーはもっと自由に語っていいんじゃないかな」という素朴な疑問があるだけです。
あとは前回書いたように備忘録としての目的もあります。

悪いのはハイライトだけ見て「すべてが分かったように」語ることであって、ハイライトそのものが悪いってわけじゃないですよね。

「自分は切り取られた映像を見ているんだ」という自覚さえあれば、それでいいんじゃないかなぁ。


今回はレノファ山口vs松本山雅を見てみます。

  • えっ、高井って山口にいるの?
  • えっ、島屋って山口にいるの?
  • えっ、田中パウロって松本にいるの?
  • えっ、田中隼磨ってまだ現役なの?(失礼)
  • ホームということもあって山口が攻めていたよう。石川啓人のクロスが目立つ。左足でも右足でも上げてるけどたぶん右利きなのかな。
  • あと草野が裏狙うパターンも山口の武器なのかな。ビッグチャンスになったのは松本DF(常田か)のミスのおかげだけど。高井も足速いはずだがこのハイライトでは目立たず。
  • 松本の惜しいシーンは佐藤和弘前貴之ミドルシュート。あまり敵のゴールに近づけていないようだ。

読みました 8 歴史の終わり


フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』を読みました。知的生き方文庫の下巻です。

ちょっと、議論が拡散したまま終わっているという印象ですね。締めの一文が

われわれは最後の最後までその(引用者注:歴史の)成り行きを知ることはできないのである。

となっていますし。

自分なりにメモしておくと、第4章の要点は

  • 地球上には、物質的に豊かでかつリベラルな民主主義が根づいている国々(脱歴史世界)と、それらを手に入れる途上の国々(歴史世界)がある。
  • 脱歴史世界の国同士はもはや戦争をしない。脱歴史世界と歴史世界の戦争はあり得る。

→ちょっと楽観的すぎる気がするけどいまのところ当たってはいるのか。

  • 歴史世界から脱歴史世界への移民が問題となるだろう。また「気概」を満足させるために脱歴史世界から歴史世界の闘争に身を投じる者もいるだろう。

→これは当たりだと思う。

  • 極東から「技術主義的な経済合理主義と家父長的権威主義とを結合させた反自由主義的、非民主主義的なシステム」が挑戦してくる可能性。

→日本のことを指しているという意味では大外れなんだけど、いまの中国はそんな感じなのかな。


第5章の要点は

  • 欲望と気概を同時に満足させるのは難しいのかもしれない。
  • 社会の中に「優越願望」を昇華できる場所が必要。それも市民の役に立つような形で、多様であるほどいい。

→多様でないとは例えば「資本主義なんだからたくさん金を稼げ、そうすれば優越願望を満たせる」という価値観しかない状態。
→いまは優越願望を満たす手段がたくさんある時代だけど、満たす難易度は実は上がっているのかもな、なんて思ったり。

  • 人の優越願望はなくならず、再び戦争という形で満足させようとする国が現れるかもしれない。しかし、そのような国はグローバルな経済から取り残されてしまうし、科学の発展も止まるので破綻するはずだ。

→これはちょっと楽観的すぎるんじゃないかなぁ。

  • 優越願望よりも「対等願望」のほうが実は民主主義への脅威になりうるのではないか。社会が平等になるほど、残された不平等への攻撃は激しくなっている。
  • 際限のない対等願望はやがて「自然の限界」に突き当たって破綻するか、さもなければ人間の定義にすら混乱をきたすだろう。

→先天的な要素は一人一人違います。それが「自然」であって、そこまで否定しようとするとおかしくなるんですよね。
→人間の定義に混乱をきたすとは、例えば「動物にも選挙権をあげよう」とか。極端な例ですが。

  • 「合理的な認知」はまだまだ歴史が浅く未完成な概念なのかもしれない。それが正しく機能するには、普遍性のない不合理な認知に頼らざるを得ないようだ。

→経済的な合理主義が根づくためには前近代的な「労働倫理」が必要である、等々。
→結局「人間がすべての他人を合理的に認知することは可能なのか」という問いになりそう。フクヤマによると、「神がすべての人を認知してくれる」という観念がキリスト教の偉大な発明であるようだが。


総括すると、本書の重要な問いは以下の2つだと思います。

  • 欲望と気概を同時に満足させることはできるのか。それができたら最良の政治体制と言えるのではないか。
  • (工業化によって欲望が満足させられるのは前提として)リベラルな民主主義は気概を満足させ得るのか。できるならば民主主義が最良の政治体制ということになり、すべての国家はそこに行き着くことにならないか。

そして答えは

  • 歴史上に出現した政治体制の中では民主主義が最良だと思うけど、万能ではないな。あと、すべての国家が民主主義に行き着くといっても過程にはだいぶバリエーションがあるかも……(ゴニョゴニョ)

といった感じです。上巻や中巻の感想にも書きましたが、私は本書の主張が大枠では正しいだろうと思っています。「気概」を重視する立場にも、個人的には同意します。ただ、好き嫌いが分かれそうな本だなとも感じます。


最後に蛇足。笑ってしまった記述を2つ引用します。

自由の行き過ぎ——レオナー・ヘルムスリーやドナルド・トランプのような人物の傲岸不遜な振る舞い(後略)
p.142

仮に人がドナルド・トランプのような土地開発業者やラインホルト・メスナーのような登山家やジョージ・ブッシュのような政治家になってしまえば、まだ汲みつくし得ない理想主義——いやそれどころか手も触れられていないような理想主義——はもう残されていないものなのだろうか?
p.202-203

1つ目の引用の後では「自由の行き過ぎよりも平等の行き過ぎのほうが本当は怖いんだよ」と述べようとしているので、トランプ氏を非難することに主眼があるわけではないんですけどね。2つ目は……笑

【ハイライトだけ見て語る】アビスパ福岡vs名古屋グランパス


ハイライトだけ見て偉そうに語り、玄人の神経を逆撫でしていこうという試みです。

……いや、別にそんなに捻くれたことを考えているわけではなくて、

  • この2年くらいほとんどJリーグを追わなかったので、今年はハイライトだけでも見よう。ちなみに海外サッカーはもっと追ってない。
  • 気づいたことは書き留めておこう。

というだけです。中立的な見方は心がけません。選手への誹謗中傷や人格否定などは絶対にしないつもりですが、片方のチームだけ好意的に見ることはあると思います。

スポーツ観戦って本質的にそういうものじゃないかな。片方を贔屓しなければ「応援」という行為はありえず、中立性など虚構にすぎないでしょう。当然、フェアプレーの精神や相手チームへの敬意を前提とした上での話ですが。

自分は中部出身でいまは名古屋に住んでいるので、名古屋グランパスFC岐阜松本山雅ザスパクサツ群馬ツエーゲン金沢などに肩入れします。群馬は関東じゃなくて中部だよね?

今回はJ1第1節のアビスパ福岡vs名古屋グランパスを見てみます。

  • えっ、柿谷って名古屋にいるの?
  • えっ、齋藤学って名古屋にいるの?
  • えっ、山岸って福岡にいるの?
  • えっ、杉本太郎って福岡にいるの?
  • 名古屋の攻撃は何といっても相馬。ゴールしたのはマテウスだが、こいつが一番目立っている。彼へのロングパス1本でチャンスになることも多い。
  • 吉田もけっこう出てくる。相馬や吉田がいる左サイドから攻めるのが名古屋の基本スタイルかな。
  • 福岡の右SBをしているエミル・サロモンソンはちょっと守備力に不安がある感じ。特に名古屋の2点目の場面で簡単にクロスを上げさせてしまったのは……。
  • フットボールラボのデータを見るとサロモンソンはクロスが上手い選手なのかな。攻撃時は彼を高い位置に出し、ブルーノ・メンデスが真ん中に入ってくるということか。

参考URL:

  • 福岡の攻撃は、このハイライトを見る限りではファンマが収めてブルーノ・メンデスが撃つという感じ。ファンマは相変わらず上手い。石津や山岸もいい選手ではあるが、今回は目立たず。

読みました 7


記事名を「蔵書整理」から「読みました」に変えることにします。


赤月カケヤ『キミとは致命的なズレがある』を読みました。
自分の中では「最近買ったラノベ 」だったんですが、2011年刊行だから10年前ですね笑

(2015年と表示されるのはKindle版だから)


内容は大きく分類するならミステリーです。細部を語るのは無粋だと思うのでやめておきましょう。


自分は「罪人はいくら叩いてもいい」とか「罪を犯す人間は最初からおかしい」という考えがあんまり好きじゃないので、登場人物が言っていることも理解できなくはないです(支持するかどうかはともかく)。しかし、まったく理解できねぇよ何言ってるんだこいつら、と感じる人もいるでしょう。

別に「登場人物の思想=作者の思想」というわけでもなくて、したいのは問題提起なのかな。


最近の傾向は分かりませんが、このころのガガガ文庫ってシリアスなの多かったんですね。たぶん。

蔵書整理 6 歴史の終わり


フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』を読みました。知的生き方文庫の中巻です。続きも読もうと思っています。

この本をどう評価するかは、結局、人間がもつ「気概」というものをどう評価するかにかかっているのだと思います。

フクヤマによると、ホッブズやロックなどアングロサクソン系の思想家は欲望と理性だけを重視しました。
一方、ヘーゲルなどゲルマン系の思想家はそれに加えて気概も重視しました。

※あくまで図式的な整理です。フクヤマは「○○人なら必ず△△の思想を持っている」といっているわけではないと思います。
※以下「フクヤマによると」はいちいち付けません。


気概は「自分はこうありたい」という思いにもなり、「他人にこう見られたい」という思いにもなります。
また、不当に虐げられた人々を見たときの「義憤」にもなれば、「他人はこうあるべき」という価値観の押しつけにもなり得ます。

ホッブズは気概から虚栄が生まれ余分な争いを招くのだと考えていました。
一方、ヘーゲルは単なる欲望を超えた「道徳的自由」の源泉が気概なのだと考えていました。
著者のフクヤマも、気概が人間を動かし、歴史を動かしてきたのだと力説しています。そして、人類の歴史を大きく括るなら、気概が「優越願望」となって現れる時代から「対等願望」となって現れる時代へと移り変わっているのではないか、といいます。
人々がみな対等に認め合うことを望む時代になれば、民主主義も上手く機能するようになってめでたしめでたし、歴史のゴールだ、というわけですね。


ホッブズの言い分にもヘーゲルの言い分にも一理あると思います。私自身は名誉欲が強いほうだと思いますし優越願望ですねすいません、気概を重視する立場にもそんなに違和感がないのですが。
しかし、それが人類に普遍の原則なのかというと違うような気もします。欲望を満足させられれば気概は満足させなくていい、という人も多いんじゃないかなぁ。割合は分からないけれど。物質的な欲望を本当に何の妥協もなく100%満足させられるなら、私もそれでいいかも。


政治的公正や反差別というものの根っこには、気概があるのでしょうし、対等願望があるのでしょう。してみると、やはり欲望の時代から気概の時代へ、優越願望の時代から対等願望の時代へと移り変わっているということなのか。はてさて。


承認欲求に取りつかれた人やマウンティングが大好きな人は、果たして気概に動かされているのか。欲望に動かされているのか。そう考えると気概と欲望の境目もよく分からなくなってきます。欲望は物質の次元、気概は精神の次元と分けることもできますが、依存症になるなら気概より欲望に近いですよね。
ヘーゲル的な意味でいえば、「承認を求めすぎるのはみっともないからやめよう」というのが気概なのでしょうけども。精神分析でいう超自我交流分析でいう親みたいな。


分からなくなったついでに(ぉぃ)2つの文章を引用して終わります。
1つ目は『歴史の終わり』本文から。

「気概」という言葉が対象物を価値あるものにする魂の部分を示すのに対し、「認知への欲望」は「気概」の働きの一つであり、他人の意識に対して自分と同じ評価をしてくれることを求めるものだという点でこの両者には多少の違いがある。認知を要求しなくとも、自分の中で「気概」に満ちた誇りを感じることは可能である。だが、尊敬とはリンゴやポルシェのような「モノ」ではない。それは意識のあり方であって、自分自身の価値観について本質的な確信をもつためには、その価値観を他人の意識によって認めてもらわなければならない。だから気概は必ずではないにせよ、一般的にいって、他者からの認知を求めるようにと人々を駆り立てていくのである。

もう1つは『岩波小辞典 社会学』から「甘え」の項。

一般に人間関係において相手の好意を求める心理のことであるが,相手との分離を拒否し依存する欲求や行動を意味する場合が多い.幼児が母親に対してもつ感情が典型的である.土居健郎精神分析の臨床経験を通し,自律性を促す西欧社会に対し,相互の関係性を重視する日本では文化・パーソナリティを理解する鍵概念として〈甘え〉があると示し,日本文化論に大きな影響を与えた(『「甘え」の構造』1971).

※上でもいいましたが、あくまで図式的な理解だと思います。「○○人なら必ずこう」というわけではないでしょう。


「対象物を価値あるものにする」「相手との分離」「自律性」、この辺が気概と欲望を分ける鍵なのですかね。

蔵書整理 5 歴史の終わり


フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』を読みました。ただし知的生き方文庫の上巻のみです。続きも読もうと思っています。

「歴史の終わり」といっても終末論ではなく、すべての政治体制は民主主義に行き着くのではないか、みたいな話です。

有名な本なので、もう批判も出尽くしていると思います。
私が感じたことを一点だけ書き留めておくと「民主主義って当たり前のものじゃないんだな」ということです。

物質的に豊かになったから次は自己実現だ、というのは民主主義が当たり前のものと思っている人の発想であって。
独裁国家全体主義国家だったら「物質的に豊かになったから次は政治に参加させろ」なんですよね。

人間には欲望や理性だけでなく「気概」がある、とフクヤマはいいます。気概とはプライドや矜持、あるいは「認められたいという思い」のことです。
欲望が物質的な豊かさで満たせたとして、次は気概を満足させたくなります。そのためにどうするかというと、人はまず参政権を欲しがります。
「夢」や「なりたい自分」を追求するのはその後の話なのです。逆にいうと、物質的に豊かで政治にも参加できているならば、後は各人がばらばらに自己実現を目指すようになるので、政治体制に大きな変革は起こりません。

そういう意味で、民主主義が政治体制の終着点であるというのは大筋で正しいのかな、と。
別に民主主義になったら生きる悩みがすべて消えるとか、民主主義国家がユートピアであるなんてことはないのですが、国が発展したら民主主義に行き着くというのは概ね正しいのかな、と。


あと付け加えるなら、物質的に恵まれていない状態で民主主義の理念だけ植えつけようとしてもダメなんだろうなぁ、とか。それを見て「○○人は劣った民族だから民主主義が根づかないのだ」って言っちゃうのは不当なんだろうなぁ、とか。


蔵書整理 4 夢の島


大沢在昌夢の島』を読みました。600ページほどの大作ですが、簡潔な文章で書かれているので量の割には早く読み終えることができました。

これまでに読んだ本の中では、おそらく『天帝のはしたなき果実』に次いで二番目に分厚い小説です。
私はプロットで魅せる大長編をあまり読んでこなかったので、いい体験になりました。
前半は都会のアウトロー小説、後半は島での冒険小説という感じで、ちょっと趣が変わります。しかし父との因縁が作品全体を貫くテーマになっているため、ブレているという印象は受けません。
(これくらいの大掴みな言い方ならネタバレにもならないでしょう)


私はどちらかというと飾りのない文体が好きです。だから大沢先生のようにあっさり書くのも上手さだと思います(大沢先生に限らずハードボイルドと呼ばれる作品の特徴でしょう)。

ただ、「あえて簡潔に書いた文章」なのか「書き手に語彙が少ないだけ」なのかって実は線引きするのが難しいんですよね。
作者名を伏せて「アマチュアが書いた小説です」といってこの作品を読まされたら、「なんだ、えらく単純な文章だな。この人は難しい文章が書けないんだな」なんて思ってしまうかもしれません。しょせん、私の見る目はそんなもんです笑

あと人物の外見をどこまで描写するかはそのジャンルによるんですよね。
ある先生がnoteに書かれたことですが、ラノベはヒロインの可愛さが命だからラノベ作家はヒロインの外見描写に凄く力を入れるそうです。
なので、そういう文章しか読んだことない人がハードボイルドを読んだら「おい、ヒロインがどんな顔でどんな姿なのか全然わからねぇぞ。もっと思い浮かぶように書けや。クソだなこの小説」と感じるかもしれません。

※別にラノベ読者に対して悪意があるわけではありません。私もラノベは好きです。最近の作品は分からなくなってるけど。


何が言いたいのか自分でも分からなくなってきましたが、要は「上手さ」の定義って難しいんだよな、ということです。


夢の島 (双葉文庫)

夢の島 (双葉文庫)